人間國寶 李梅樹

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臺灣美術論
呉天賞|臺灣時報|1943年3月
     府展の改革

 府展の機構及びその運營を、發展的に改革することは、ひらかれるべき臺灣美術界の将來に對する今日の當事者の義務である。府展はすべてに草創時代に果すべき種播きの仕事を果し、長い成育期間を育てゝ来たのであるから、今や刈取る責務の一半を本島在住の作家は背負はなければならない。そして新しい時代へ再出發しなければならないのである。

 先づ審査員の問題である。府展、遡つて臺展は十數年來審査員を洋畫二人と東洋畫二人を内地中央畫壇から迎へ、島内からは殆ど固定された各一人を起用して來た。内地から迎へる審査員は毎年顔觸れが變り、それがために一部の作家は審査員の顔觸れによつて一喜一憂し、不必要な部面において手心の加減をしたり、それでなくてさへ迷ひがちな制作方針をぐらつかせたりする懸念があつた。これは中堅級に屬する作家について特に心配されることであつた。之らの作家は、大よそ入選は確信するところであるが、特選を狙はなければならないからである。無鑑査推薦級の作家について言へば、彼らは夫々内地の畫壇において、あるひは帝展に四回から六回出品してゐたり、春陽會、國畫會、創元會の會友だつたり、二科、獨立、一水會等に出品したりして、自分の先生も、制作の方向の定り、ひたすらその方に向つて精進してゐるのであるから、いくら七面鳥のとさかのやうに、毎年色合ひを換へるやうにして審査員の顔觸れが變つたところで、さして痛痒を感じないのである。彼らは自分らの仕事ぶりについて、そう大して骨身に滲みるやうな批評を自分と毛色の變つたそして繼續して自分の仕事の足跡を眺めてもゐない審査員から受けるものとは期待してゐないのである。更に一般出品者中、入選と落選の境界を出入する多數のものについては、洋畫の方であれば固定された審査員かの觀がある鹽月桃甫氏の風流にでも學ばない限り、確固とした府展としての指導精神を、毎年變る審査員の言説から、乃至はその作品から學びとることは極めて困難であり、迷はざるを得ないのである。しかも之ら迷へる羊の群の中にこそ、明日の臺灣畫壇の後繼者が潜んでゐることに、當事者及び美術關心者は着眼すべきであり、府展としての指導目標を確立することによつて、彼らに技術錬磨の方向を指示す潮時に今やさしかゝつてゐることに思ひを致すべきであらうと思ふ。

 毎年、物見遊山をするのでさへ短かすぎるかに思はれる日數の間に、二人組の審査員が渡來し、あはたゞしい間に審査員たちは小さいスケツチを一、二枚ものしたり、あるひは内地から提げて來た手輕いものを會場で見せてくれるほか、出品者に對しては懇談會を催して審査の經過を話し、新聞には抽象的な感想談を發表するものであるが、それきりの話で、さて來年は誰か渡來し、どういふ作品をみせられ、いかなる感想を出されるのであらうかは、教はる方でさつばり見當がつかないし、したがつて毎年ゆきあたりばつたりの制作を試みて出品するほかはないのである。多種多樣の變つた一流畫家が毎年訪ねて來ることは、それじたいが一種の刺戟として好ましい部面もあるし、作家たちは夫々自分の好きなタイプを選ぶのに便利ではあるが、擦違ひに一目見て好きになつたからとて、それ以後の長い接觸と、薫陶なしには、ほんとうのものを學びとることは不可能である。勿論過去における大もの審査員の多種多樣は、特に本島畫壇の行政的部面に直接間接貢献したものと思はれるが、その任務はすでに現在完了されてゐなければならない。その任務の大半は自重と互助的精神に覺醒めた本島在住作家によつて新に繼承され、そして立派に擔はれなければならないのである。

 わたくしは此處で渡來審査員の全廢論を唱へてゐるわけではない。畫壇行政と名人會的プログラムの提示において一應任務を完了した過去の審査員制度の内容と運營をこゝで一回轉することによつて、來るべき臺灣美術界にひろい舞臺を提供し、蝸牛角上の爭ひで疲れ腐つて、遂ひに稀な才能にあつてすら畫業を放棄せざるの止むなき運命を辿る本島の作家たちに輝かしき役割を演じて貰ひたいと言ふのである。それは本島の畫業がすでに本島なりに舞臺轉換をしてもいゝ程に成熟してゐるのであるし、觀衆もまた新しい幕がひらかれることを待つてゐる態勢にあるからである。加ふるに、昔日のやうに手輕に内地へ往復するわけにいかない今日にあつて、畫業を積み、名を遂げるために毎年展覽會期ごとに内地に往來する多くの作家たちに、地元で齎らし得る勵みの機會を與へるべき、かつ當事者側の年ごとに顔觸れを換へる審査員の銓衡およびその招聘の煩雜な事務を簡素にすべき新制度誕生の前夜に客觀情勢はさしかゝつてゐるのである。以上私が述べた理由は府展出品者と臺灣美術の成長を心から期待する觀衆の絶對多數とそして更に大きい客觀情勢は、審査員制度の脱皮改善を要求してゐるものと信じたが故にである。

 要求する新審査員制度の根本的狙ひは、府展從來の瞬間的浮動的指導性を揚棄して、永續的、確立的指導性を持來たらせることである。それは畫壇の外廓行政的部面の過重視を矯正して、畫業本來の道を歩ませることである。

 具體的に例へば、正統的畫壇の確立において上野美校の草創時代にあつて今日に到るまで、ますます光を放つて來る故黒田清輝畫伯、近年物故した岡田三郎助畫伯、及び現畫壇の大元老藤島武二畫伯の存在に似たやうな學究的一流畫家をこの島に招聘し、大いにこれを支持して研究所を作り、此處を作家となるべき人の猛烈な錬修道場たらしめることである。研究所は永存的機關であるがゆゑに、永續的・確立的指導精神は此處から流露するのである。研究所の主宰者、またはその指導精神に合致する優れた作家が府展の審査に關與するのである。内地からその都度審査員を迎へるにしろ、適格な同一人者を事情がゆるす限り繼續して招聘してすることである。

 一方、府展の常連から秀れた作家を會友に推薦し、會友のうち誰が見ても實力のある者を會員にし、あるひは會友の選舉によつて會員を選び、會員たちは順番に府展の審査に關與するのである。

 又は現中央官展の方式を取入れて各在臺有力在野團體から審査員を府展に送らせることも、在野團體の成長に應じて考へられる方法であらう。

 右の諸方法のうち、その單一の方法を採用するとか、あるひは二つ、若しくは二つ以上の方法を取組んで運營することも更に研究されていゝ問題だと思ふのであるが、現在の府展にあつては、技倆と識見と人格においてつねに良心的批判に値ひし、前記三畫伯のやうに、後輩を指導するに廣い雅量をもつてする畫壇の第一人者を主導審査員として前述の會友制度、會員順番審査制を領導して審査班を作ることが、あるひは當らせられることが、最も妥當な方法に近いかと思ふ。

     古典回歸と臺灣畫壇

 次ぎに臺灣畫壇の一般的傾向を眺めてみよう。押しなべて二つの大きな傾向を指摘することが出來る。一つは藝術を愛玩する觀客的好奇的精神に投合し、地味な畫道の修業を端折つていきなり飛び込んで繪畫の王座を攻取らうとする作畫的態度のものと、他の一方は藝術を敬愛し、遂に自分の宿命なりとして五年なり十年なりの畫業修養を經てのち難艱にぶつつかり、そしてころび、ころんでは又起きて地味な歩みを續ける制作的態度のものとである。之らの中には長年ずつと畫道の困難と生活の道と鬪ひ、ぐつとカンバスに喰下つて相當韋陀天に駈け抜いて來たものもゐる。その先頭にある二三の作家は日本畫壇の中堅層に肉迫してゐる。打てば必ず響く力量を、長年の努力のうちに獲得してゐたのである。

 いゝ意味においても、わるい意味においても、觀客的好奇的態度は、その平氣で傳統を放擲する意味において素人的であり、その表現の奇異、卓抜、突拍子、部分誇張的、架空的技巧において浪漫的である。この派のものは色彩の選び方において、繪具の煉り方において、すこぶる勇敢である。鮮やかな色彩と、突飛な對照と、そして思ひつきのいゝ感覺が資本なのである。長じて老成すれば、げてまたはげてと紙一重の境地を低徊し、さびのある味を誇張するのである。仕事については追求するといふことよりも、凝る方が上出來なのである。この派の長所は目新しい刺戟を與へること、凡人の氣づかない部面を展開してびつくりさせること、そして乙女の纖細な浪漫性を提示することである。見る側から言へば、むしろこの方が氣樂に眺められる。まともに歩るくよりは、蟹のやうに、いきなり横走りに駈け出された方が面白い場合もあるからである。展覽會場も一種のびつくり箱であつていけないわけはない。わたくしは、かつてこの方が愉快であつたし、拍手も送つた。勿論わたくしは現在も、また将來もこの方のほんものの傑作が簇出ることを期待し、何時でも帽子を脱ぐ用意をしてゐるのである。臺灣にゐるこの派の缺點はルヲー、マチス、ピカソの一面を知つて、マチスやピカソを生んだ傳統の背景を無視し、あるひは味得してゐないところにある。遡つてセザンヌあるを知つて、セザンヌ以前を知らないのである。であるからわれわれは日本洋畫壇の大先輩がいかなる態度で畫道を探究し、いかにして畫業を成就したかを今特にふりかへつて再檢討する義務があると深く感ずるのである。

 好むと否とに拘らず時代は古典に歸り、古典より再出發をなさんとしてゐる。超現實派が輕んぜられ、作家が轉向し、野獸派が時代的流行から取殘されて、作品が間抜けて見えたりする時代にさしかゝつてゐるのである。新制作派における猪熊弦一郎的態度でさへ、人氣を落し、千遍一律の如く、昔から日本の海邊や、湖や、山村の風景を寫生して來た石井柏亭の繪の前にまた人の山がたかりだした。帝展の老大家が唾棄すべき、すくなくとも退屈な存在として片隅へ押しやられて超寫實派が闊歩した時代はとにかく過ぎつゝある。その速度は相當に急速のやうである。識者の人々は、昨年の十二月三日より同月二十五日まで上野の美術館で開かれた「大東亞戰爭美術展」に持寄られた各二百號大の作品三十九點、「12月8日の真珠灣……藤田嗣治」、「山下、パーシバル兩司令官會見圖……宮本三郎」「コタバル……中村研一」そのはか小磯良平、田村孝之介、猪熊弦一郎、伊原宇三郎、清水登之、中山巍、鶴田吾郎、向井潤吉、佐藤敬、石川滋彦ら竝びに日本畫の山口蓬春、川端龍子らの課題による記録畫の素材と繪畫的成果は別として、その表現力に對して鋭どい目を見張つてゐるのである。時代は之ら派遣畫家たちの力量の據つて來たる淵源に遡つて深い關心を寄せてゐるのである。

 この戰爭美術展は、畫壇の古典回歸的傾向にきびしい拍車を掛けることであらう。そしてこの次ぎにはまた何が現れるか、若しくは表し得るかは、今日を確實に勉強したもののみが明察することの出來る問題である。

 本島にゐる古典派たると浪漫派たるとを問はず、作家は内地中央畫壇のこの古典回歸の因由に深い關心を寄せるべきであらうと思ふ。そして又この次ぎには何が顯れて來るかと、

 ふりかへつて、二、三人を除いて古典派は、古典派にふさはしい粘ばり強い勉強ぶりを要求されてゐると言ひたいのである。畫家たるの宿命にとりつかれた以上は、敢然と立上つて、一生涯畫家としての歩みを歩みつゞけるべきである。朝から晩まで繪筆を離さずに、繪具が不足すれば鉛筆でもいゝ、撓みなく技術を錬磨し、畫囊をこやして最後まで駈け抜けるべきである、途中で逃げたり、締めたりしたのでは、どうしてバトンを次ぎの走者にさし渡すことが出來よう。輝かしき藝術の殿堂を築きあげるべき任務を背負ふてゐるのに、努力不足のために、見榮えのしない掘立小屋をばかり建てゝゐたのでは申譯がたゝないのでゐる。

     在野團體

 最後に、臺灣美術を論ずるのには、本島における在野團體を輕視することは出來ない。左に目ぼしいものにつき略述しよう。大正の末期、臺展がまだ誕生しない以前に北部では石川欽一郎氏およびその門下生故陳植棋、藍蔭鼎等の諸氏を包容する七星畫壇、下つて南部では陳澄波、顔水龍等の諸氏による赤陽社、昭和年間に入つて右二團體の合併による赤島社の出現、そしてその發展的改組によつて昭和十年に現在の臺陽展が生れたのである。

 臺陽展は洋畫部會員に陳澄波、李梅樹、楊佐三郎、李石樵、廖繼春、劉啓祥、陳春コの諸氏と多數の會友を、日本畫部會員に、陳進、郭雪湖、陳永森、中村敬輝、村上無羅、林林之助等の諸氏を、そして彫刻部に鮫島台器、陳夏雨、蒲添生の諸氏會員を網羅する一大公募展である。一般公募作品は府展のそれと同じレベルにあるが、會員が一年の總決算を世に問ふべく、ずらりと大作を列べる精進ぶりは一つの偉觀である。

 すこし遡つて鹽月桃甫氏とその研究生の集りである黒壺會故松崎亞旗氏や松本透氏らを包容する美術家聯盟、そして最近飯田實雄氏を旗頭とし、日本畫部に宮田彌太郎氏を伴侶とする創元展等を見逃すことは出來ない。ムーヴ展、あとで新興美術展と改め今中休みしてゐるが、中の陳徳旺、洪瑞麟、張萬傳、藍運登ら(以上洋畫)、黄清呈(彫刻)、顔水龍(工藝)の諸氏は夫々その分野における注目すべき新人である。

 日本畫には梅檀社などがあつたやうである。

 之ら野展については更に研究し、論ずべき多くの問題を包藏してをり、各作家についても、作家論をなすべき興味は充分にあるのではあるが、紙數が盡きたので茲で擱筆する。

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