一、序
二、明治中期に於ける國粹美術
三、藝術樣式論より見たる國民美術
四、臺灣に於ける國民美術の課題
一
國民藝術の戰線が、現時の我國力の發展につれ、あらゆる藝術の部門に向つて、強化せられ、其の名の下に組織統合せられんとしつゝあることは顯著なる事實である。
既に紀元の佳節に當り、新たに文化勳章制定の勅令が公布せられたが受勳者の中には、最も多數の美術家を數へ得、古來美術國を以て著れた我國の面目を更に發揚したのである。又現内閣に於ては最初の文化施設として、帝國藝術院の設立を企圖してゐたが、六月二十三日にその成立を見、二十四日の官報によつて、帝國藝術院官制及び會員が發表された。此二つの事實はジヤーナリズムに於ける批判に於ては兎角種々論議せられたる所ではあるが、國民藝術の戰線統一の顯著なる現れであることの意義を持つものであると思ふ。
始政四十周年を經過せる臺灣に於て、五百萬人の本島人と三十萬の内地人中美術家の數は何程であらうか。建築家、彫刻家はさて措き繪畫方面に就て曰へば、本島唯一の公設展覽會である臺灣美術展覽會(註一)の入選者(出品者は數へず)東洋畫二百名西洋畫三百名合計五百名、之が臺灣の玄人素人畫家の概數である。既に昨秋同展覽會は第十回を迎へ、其際長官、文教局長兩閣下の臨席の下の祝賀の式典が市内龍口町の教育會館に於て催されたのであつたが、其席上會長(長官)より十箇年連續入選作家及び永年勤續役員(註二)に記念品の贈呈あり、本島美術文化の盛典として明朗なるものがあつたが、これは實に臺灣の文化勲章(美術の)とも曰ひうべき意味を持つものであらう。
本論の主題は是等美術家達の自覺の問題、又植民地人の趣味性の陶冶の問題、或は又本國の美術品に直接觸目する機會に惠まるゝこと少き次代の國民の國民性の涵養の問題、又本島人の國民化の問題よりしても決して等閑に附せらるべきに非ざる意味を持つものと考へ、敢て愚論を序する理由である。
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註一、本島に於ける民間の美術團體の主なるものは、東洋畫に於ては、梅檀社、春萌社、日本畫協會等あり、西洋畫及彫刻に於ては、臺灣美術聯盟、新興洋畫協會、臺陽美術展覽會、臺灣水彩畫會、臺南畫會等あり。洋畫研究所としては稍形式の異れるものに京町畫塾あり。
註二、鹽月桃甫氏の意匠に成れる記念賞牌は十箇年連續作家及び永年勤續役員に贈呈せられたり。即ち前者は、陳氏進、林玉山、郭雪湖、村上英夫、宮田彌太郎(以上東洋畫)陳澄波、李梅樹、李石樵、廖繼春、竹内軍平、木村美子(以上西洋畫) (計十一名)後者は幣原坦、大澤貞吉、加藤春城、井手薫、木下源重郎、素木得一、尾崎秀真、加村政治、蒲田丈夫、郷原藤一郎、鹽月善吉(以上十一名)
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二
藤原美術の優美、鎌倉美術の壮美、桃山、江戸初期の美術の豪華は何れも我國民美術の熾烈に發揮せられた結果であるが、又單に徳川期のみより曰ふも如何に國民意識の強烈なる美術家の輩出を見たであらう。即ち狩野探幽、尾形光琳、圓山應舉、岡田為恭、亞歐堂田善等々。或は浮世繪畫家の輩に至りても菱川師宜の「日本繪師」の著名を以て意氣を示せるものすらあれど、其等の詳説は止め、此處では明治二十年代に於て發揮せられし國粹美術の發生に就て顧み度い。それは我國民美術の一表現であると共に現時の國民美術の盛儀将に成らんとする前奏曲とも見らるゝ故に。
明治初期に於て我國の畫壇は暗K時代であつて、其間に於て獨り文人畫と西洋畫が春に先立つて咲き出た花であつたが、明治十四、五年の交に端を發し、二十年代の末期近く畫運の復興は成つたのであつた。而も其は文人畫を抑へ、西洋畫を唆み、日本畫本來の特質を發揮すと稱して立てるものであつた。文人畫派の之に與らざりしは當然として、時勢の順調に乘つた西洋畫家が、この功績に與らざりしは如何。明治二十年頃は西洋崇拜の最も盛であつた時ではないか。十八年の官制改革は第二の維新とも稱すべき時で、その施設はすべて泰西の制度を基礎として成り、二十年には、時の内閣總理大臣が假裝舞踏會を鹿鳴館に開きしが如く、所謂鹿鳴館時代の歐米心醉を極度に發揮せる時に當り、獨り畫運の勃興が外風輸入と主義相反せる國粹發揮を標榜して成れるは一般の時勢と矛盾せずやと思はれるのである。然し乍ら一見すれば此甚しき矛盾は、決して矛盾にあらず、國粹發揮は即ち外風輸入の結果なのである。西洋の事物の模倣より出發して、後に進んで我特質を發揮せるのである。歐洲諸國の藝術が、何れも勉めて國民藝術を獎勵せるに、獨り當時の我が國人が西洋の事物に沈溺せる間に、洋人の却つて日本美術の優越性を説くあり。斯くて國粹發揮は西洋崇拜の中より起つたのである。當時の國民は他に聽いて初めて自己を反省し自ら有する富に驚ける状態にあつたのである(註)。米國ボストンの人エルネストフエノロサは明治十二年東京大學に聘せらるゝや、わが國美術を具さに觀賞し感歎措かず、狩野永悳等に就き東西美術の研究を重ねたが、一方同志の人と計つて鑑畫會を起したのであつた。即ち彼の意志する處は、日本美術の淵源は遠く、其術進める美術を有す、これを棄てゝ徒らに外國に學ぶのは自重せざるも甚しきものと云ふべし。一國将來の文化は過去の歴史を基礎として建てざるべからず。何ぞその迷夢より覺醒して、固有の長所を發揮せざる。と曰ふにあつた。そうして頻りにその説を唱道して、日本畫の復興に勉めた。
此處に於て前に工部大學の美術學校に西洋美術を教授せしめし政府は、今やその方針を一變して日本畫の保護獎勵に力を致すに至つたのであつた。この主意の外に表はれたるもの二つ、一は展覽會に於てなし、一は美術教育に於てなしたのであつた。
展覽會は明治十五年、政府第一回繪畫共進會を開き、十七年その第二回を開いたのであつたが、これより先十二年の頃より龍池會なる會合があつて古書畫骨董品の展觀を上野不忍辨天の境内に催し年々隆盛に趣いたのであつたが、三十年に至りこの會を擴張して日本美術協會と稱し、毎年工藝美術の作品の展覽會を開くことゝしたのである。政府はよつてこれを保護して繪畫共進會を廢したのであつた。
第二の美術教育に就いては、從來小學以上の兒童生徒にすべて鉛筆畫を課して得たりとしてゐた文部省當局者も、頗る進退に迷ふに至つたのであるが、十七年、フエノロサ、岡倉覺三、小山正太郎等を委員として、圖畫教育に關することを調査せしめた。しかし乍ら議論沸騰して取捨決せず、かくの如くなれば西洋諸國の情況を視察するに如くはなしとし、十九年、當時學事調査のため獨乙にあつた濱尾新を美術取調委員長とし、またフエノロサ、岡倉の二人を委員として歐洲に派遣したのである。
かくて委員等が歸朝後説くところは、美術教育は國民固有の技を基礎とし、基礎固くして然る後は外邦の長を取るべしといふにあつた。その趣意により将來美術の教育に關るべき人を養成せんがために設けられたものがすなわち東京美術學校であつて、二十一年十月勅令を以てこれを建設した。圖畫取調の委員となり、美術學校の設立に勉めたのは、日本畫家としては狩野芳崖、橋本雅邦であり、共に畫運振興の急先鋒として明治國粹美術の二大高峰である。芳崖のことは暫く措き雅邦は美術學校の創立せらるゝや、初代校長岡倉覺三の幕下に参して教授の首位を占めたのであつたが、生徒はこれが為に啓發せらるゝもの多く、二十六年以來、横山大觀、下村觀山、西郷孤月、菱田春草等の卒業生を出すに及んだ。文化勲章も拜受者中、何處迄も日本主義を標榜せる點に偉彩を放てる日本美術院の元老大觀の根本精神は當時より養成せられしものと見ることが出來る。
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註、獨人ワグネル、伊人キヨソネ、米人ビゲロー等米人フエノロサの前にあり。
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三
獨逸の著名なる美術史家ハインリツヒ・ヴエルフリンの名著「美術史の基礎概念、近代美術に於ける樣式發展の問題」によれば、美術には、各個人に特有な「個人的樣式」がある。而して其個人の屬してゐる畫派にも亦其畫派特有の樣式がある。この樣式を指して「畫派の樣式」と言はれてゐる。これと同時にその樣な美術家の生活してゐる「國土」の差によつて、國土特有の樣式があり、其を「國土の樣式」と言つてゐる。このやうな國土特有の樣式を考へるならば此等の國土に生活する作家の屬してゐる人種的な差異も十分考へねばならない。この「民族」による特有な樣式のあることは、オランダの美術とイタリアの美術の樣式が好例であるが、此民族特有の樣式を指して「民族の樣式」と言つてゐる。此等の樣式の差異によつて美術を考へて行く反面に、此等の作家の生活してゐる「時代」を忘れることは出來ない。各時代には其時代に特有な「樣式」があるのである。クラシイク(十六世紀)とバロツク(十七世紀)の對立がある樣に。ヴエルフリンは是等の時代精神とか國土とか民族的な精神が、如何にして美術の樣式に現れるものであるかを考へ、これを一つの「形式幻想」によるものとした。この形式幻想とは、その時代とか國土とかの持つてゐる「根本氣分」と言ふものが、私達の考へてゐる樣式を形作つて行くものであるとし、これを對して生活感情は、その時代の人々の視覺を規定して行くものであると考へたのである。即ち「樣式」は一つに人々の持つてゐる「氣分」によるものであるとし、他の一つはその人々の「視ると言ふ形」即ち一つの「視覺形式」によるものであると考へてゐた。そして此等の二つを合せて「樣式の二重根源」Die doppelte Wurger der Stilsと名付けてゐる。
この樣に各時代、各民族、各國土、各作家の特有な樣式は、その根源に異なれる「氣分」と異つた「視覺形式」のあること、即ち言葉を換へるならば樣式の二重根源と言ふものを持つことに依つて十分明白に考へられると共に、その表現された美術を充分理解することが出來るものと考へた。
本節の概説により國民美術の樣式は将に國土の美術と民族を抱含せるものたるべきは、深田康兼全集巻四の「美術史上の基礎概念としてのルネツウンスとバロツク」の末尾の數行よりも推論出來るのである。
四
私は前々章に於ては、便宜上主として明治中期に於ける國民美術──國粹美術の發生を顧しが、又前章に於ては主としてヴエルフリン教授の藝術理論に基き國民美術の樣式は國土の美術の樣式と民族の美術の樣式を抱擁せる如きものたらざるべからざる結論に達すべきを述べしが、今此處で更にカントに就いて美の理想は如何なるべきやを考へ、國民藝術の美の理想を推測し以て臺灣に於ける國民美術課題に就て杜撰乍ら結論を與へたいと考へたのである。
カントは其三大名著の一「判斷力批判」に於て、美の理想に就て次の如く述べてゐる。──人間を内部的に動かしてゐる所の道徳的諸理念に對しての可視的表現は成程唯經驗からして取り來られるより外はない。しかしながら、其等諸理念と吾々の理性が最高合目的性の理念に於て道徳的善へ結び附ける所の總てのものとの結合をば──即ち魂の好をSeelengute若しくは純潔をReinigkeit若しくは強さStarke若しくは静けさRuhe等をば──(内部的なるものゝ結果としての)身體的表出に於て、云はば可視的ならしめるがためには、是等のものを單に評價しようとする者に於て──之を描寫しようとする者に於ては尚更──理性の純粹理念と形象力の強大なる力とが竝び存することを必要する。斯くの如き美の理想が正當に美の理想たることの證明は、それが其れの客觀の滿足の中に何等の感覺的刺戟もの混入を許さぬこと及びそれにも拘らず大なる關心を其客觀に對して有せしめると云ふことに於て與へられてゐる。此のことはしかし、又其處からして、斯の如き標準に從つての評價が決して、統粹に直感的ではありえぬこと、そして美の理想に從つての評價が單なる趣味の判斷でないことを證明するものである、と。
實に生ける吾々は國民である。具體的の吾々は藝術家になる前に國民である。故に真の意味に於ける國民美術を意圖する藝術家──此處では鑑賞家をもこめて──に與へられし、從つて臺灣に於ける夫れが課題は、國民の美の理想の認識が第一の必要條件となるのであるが、此處より必然的に次の結論を導くことが出來るのである。
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第一 吾國の國民美術の發展を深く反省し、我が國民美術の美の理想が奈邊にあるかを洞見し、然る後西洋美術の徹底的咀嚼が好果をもたらすであらう。
第二 本島作家は郷土の藝術樣式の顯現に努力すべきである。即ち本島の歴史的社會地位を認識し、本島に特有の對象の(或は自然の)藝術的研究への献身が夫れを發見する一大方法であらう。但し本島作家は細やかな氣分を否定し、即ち單に細やかな經驗より來る感性的表現に止らずして、國民としての美の理想がどうしても第一義的に必要な條件であることを反省せる上に於て。
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私は第一節に於て植民地人の趣味性の陶冶の問題、第二世の國民性の涵養の問題、本島人の國民化の問題と關連して本論に大いなる意味付を自ら與へしが、本論の結論が、本島五百名の藝術家竝にあらゆる鑑賞家──少くも全島の有識者──の完全なる自覺により實現せらるゝならば、此等の問題は自然に解消するものとして、私は佛蘭西の美學者ジヨンマリーギヨー氏の「社會學上より見たる藝術」中より──社會體の一部に於ける過度の緊張は他の部分に傳播する。總べて社會とは之を組織する生きた分子相互の均衡を保持せんとする傾向を意味するに外ならぬ。──を記し擱筆する。
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