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臺灣美術展物語
塩月善吉|臺灣時報|1933年11月
第七回臺灣美術展覽會
は來る十月二十日、二十一日の兩日に搬入受附をなし、二十七日から十一月五日迄、臺北市龍口町教育會館に於て開催されることになつてゐる。

 臺展に就いての問題を、臺灣時報發行所から與えられた事は、意義の深いことと思ふて快諾はしたが製作その他可なり多忙なために、思ひ出るまゝに漫筆を走らすの餘義ないことは、讀者各位に對して相すまぬ事とは思ふが、ェ大の御ゆるしを、先づ以つて御願ひする次第である。

臺灣美術界
の發育は、近々十年乃至十二三年位ひのものと思つていゝと、私は考へる。勿論、私は主として西洋畫について云ふわけであるが………

 西洋畫、日本畫といふ名稱も、今日では、決してその表面の字義の通りに解釋すべきでなく、材料や表現の形式は異にするが、等しく日本美術と解して然るべきものと思ふ。

 私は十二年ばかり前に渡臺したが、その頃赤土社といふ洋畫の展覽會があつた事を記憶してゐる。別府貫一郎君、古川義光君ら十人餘りの、若い人々が、全島の洋畫に親める人々を一團としてゐたらしい。赤土社も、私はたゞ一回だけその展覽會を見たゞけで、その後解散されたものと思ふ。

 次ぎに古川義光君その他三四名の人々で、ガラン社といふ展覽會を作つたが、これも一二回でその跡でが消えたやうに思ふ。

 十年前には、そんな状態で、素人で油繪具に親む人は極少數であつた事は事實である。

 素木得一氏(臺北帝大教授)の令息洋一君が、小學校四年か五年生の頃天才的の油繪を盛んに描き出した。その純真な物の見方や、大膽な表現は、今から考へて見ても驚異に價すると記憶する。素木氏は、藝術寫真の權威者としてその頃は非常に熱中してゐられたので、その寫真と洋一君の作品とを、博物館の階上の廻廊で親子展を開いたところが、素木氏の寫真よりより以上に洋一君の作品は觀る者を喜ばせたものである。その翌年、第二回展は洋一君の油繪ばかりであつたが、驚くべき進境振りは、觀賞者をして「子供でも油繪をかけるならオレたちにもやれる筈だ」………といふやうな製作的の刺戟を與えたもので、素木博士、倉岡博士、於保博士、故山口博士、安澤博士、高商の佐藤教授、内田教授(現臺中商業校長)、大朝の蒲田氏等のK壺會が生れて、三、四回の展覽會が開かれ、全島のアマチュア連に洋畫熱をミめる機運となつた。

 K壺會より少し早くアマチュアの素壺社といふのが出來て、夜間素描の研究をやり、本格的の研究から出發しやうとつとめたが、展覽會も二、三回でその後は解散された。

 素壺、K壺の出來た前後に、石川欽一郎氏が臺北師範にやつてこられた。石川氏はズツト以前に臺灣にゐられた事もあり、日本水彩畫壇の先進者として知名の作家であることは、臺灣の人々で美術を論ずる人は皆知つてゐられる筈である。

 石川氏の渡臺は一層臺灣の洋畫熱をミめて來た。

 一方地方では、高雄中學に山田新吉君、臺南に河村伊作君などがゐて、その地方で洋畫を段々と鼓吹するといつたやうな有樣で、わづか四、五年間に、臺灣美術の芽が島内各地に發育を始めたわけである。

 材料店も、臺北の小塚支店、臺南のいろは堂などは豐富に仕入れて、洋畫一切の材料用具は内地に注文する不便を解決してくれたので、この事も臺灣美術の發展に相當の力があるものと思ふてもいゝ。

 以上のやうな有樣で、全島的に勃興した美術熱を一層有意義に發育させたいといふやうな事で、臺灣日日新報はその社説に、朝鮮展を對象として、是非臺灣美術展覽會を作るべきことを論じ、作者竝に愛好者の聲としても、臺灣美術展覽會の創設が話題となつて醗酵しかけたのが、約八年前であると記憶する。

 昭和元年の夏、新公園の近くにある海野商會の階上に、大澤臺日社主筆、蒲田大朝支局長、海野氏、郷原古統氏、石川欽一郎氏、私、その他二三の人々が會合して、臺灣美術展覽會開設に就いての相談會を開いたのが、抑も臺展の起りである。勿論その時の相談會では、民間に作る事を目標としたやうに覺えてゐる。

 當時の内務局長後の長官木下信氏が、この問題について、總督府の方で開催したいといふ希望で、内務局長室に、大澤、蒲田、井手、尾崎、石川、郷原の諸氏、それに小生などを招かれて下相談にあづかつたわけである。

 時の長官、現農林大臣後藤文夫氏、初代文教局長石K氏によつて、臺灣教育會の主催で愈々第一回臺展が公開されたのは昭和二年の秋であつた。

臺灣美術展覽會
の趣旨としては、「本島に於ける美術思潮勃興の機運に順應し、一には本島關係作家の切磋發奮の機會とし、一には藝術趣味普及の一助たらしめんとす云々」といふわけである。

第一回臺展
は樺山小學校講堂で開かれた。審査委員長は石K文教局長、日本畫部が郷原、木下の兩君、洋畫部が石川氏と私とであつた。

 「費用の事は心配いらぬから、出來るだけ立派にやつてくれ……」といふ石K局長の意氣込みは、實に臺灣美術展覽會の雄々しい基礎を作つたものと、私は信じてゐる。

 文部省から参考品を借用して、所謂参考展も開かれたが、それほど人氣でもなく、又費用等の關係もあり、第二回展からやめられたが、これはそれでいゝ事と思ふ。

 第一回展は非常な人氣で、入場者が一日一萬人近くも押しかけて、芋を洗ふやうな雑踏であつた。會場係であつた若槻氏(現臺南高工校長)などは、襯衣一枚で、自ら觀衆の下足まで直されたやうな有樣であつた。

 入選發表については、いつも問題を作るやうに、第一回は殊に、入選しなかつた連中から盛んに審査員攻撃が出たりして、臺日社の三階で、落選展覽會などまで開かれたが、それは要する落選展(名稱は落選展ではなかつたやうだ)で、審査鑑査の不公平、不見識を示す何ものもなかつた。その翌年からは開かれなかつた。

 ついでにいふと、第一回から臺日の「ウエルカム欄」に犬の遠吠見たいな蔭口が出る事は、今日もまだ跡を斷たぬやうである。この事は決して面白い臺灣作家根性ではないと思ふ。

第二回臺展
は、第一回に島内審査員攻撃が多かつたからといふ意味からでなく、内地の權威者にも鑑査審査に加はつて貰ふ事が臺展美術の發展にいゝといふので、東洋畫、西洋畫に、各一人宛招聘する事になり、西洋畫に小林萬吾氏、日本畫に松林桂月氏が來られた。第三回にも引きつづき兩氏を煩はした。

 第二回より、審査委員長も臺北帝大總長幣原先生を煩はし、今日に及んでゐる。

第四回臺展
には内地側審査員は、西洋畫に南薫造氏、東洋畫に勝田蕉琴氏が招聘された。西洋畫第五回、六回には和田三造氏を招聘した。本年は日本洋畫界の元老であり、最高權威者である藤島武二氏が渡臺せられる筈である。

臺展の作品
は中央の各展覽會と異り地方展であり亦綜合展でもある。決して遍した主義主張に捉はれてゐない。

臺展の作家
は若い人たちである。中央に於て美術學校その他專問の研究所に學んだ人もあれば、全く獨學獨習の人々もある。帝展に出品した作者は、廖繼春、陳澄波、顏水龍、名島貢、藍蔭鼎等の諸君があるやうに思ふ。二科の松ケ崎亞旗君、白日會の南風原君、春陽會の楊佐三郎君、その他にも中央の展覽會に出品してゐる人がある事と思ふ。右の外に、高雄の山田君、横山君、臺南の御園生君、美術學校在學中の李石樵、李梅樹君等、中堅作家として、その他に屈指せられる有望の、新人の多數を持つやうになつた事は、私ども當初から關係して、只管健全なる臺展美術の發育を希望してゐる者にとつてのみならず。臺灣文化の向上を望まる人ゝたちも喜んでいたゞける事と思ふ。

 臺灣美術のよき進展は、作家側の賢明な努力は申す迄もないが、臺灣の人々の鞭撻を俟つ事は更に大きな力と思ふ。動もすると臺灣美術展をケナス事をむしろ得意に心得て、無責任な文句を新聞雜誌に載せられる事や、無反省、不勉強の作者が、入選しない事を恐れたり又は入選しなかつたウツプン晴らしに、安價な同情を拂ふ事なども、臺灣の慣習的な事乍ら、好ましくない事と思ふ。

 年々幾多の内地渡來の畫家も、近來は審査員會員級となつて、責任ある作品展がつぎつぎと開かれて、觀賞家にも、作家にも、大いなる刺戟が與えられる事も、臺灣美術展覽會のヨキ進展の慈養である事を喜ぶ次第である。

(十月八日夜)

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