人間國寶 李梅樹

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第六回臺灣美術展覺書
立石鐵臣|臺灣時報|1932年11月
 作品の語るものを聽き、語らせるための技術を探つてその覺書をつくる。

 觸れる作品は小數に限られる。紙數のためと全部に觸れる必要もないからである。觸れるものは觸れないものより優秀なものとは限らない。

第 一 部 (東洋畫)

   「麻竹」 伊 藤 稻 雄

 縱長の畫面に、太い幹を持つ竹の下部が描いてある。幹は前面にひろがる多くの葉の陰で、強い直線の役割を手びかへ、多くの葉の組合せの按排が、この繪の語るものとなつてゐる。葉は強く濃い緑を厚く平たく塗られ、葉の特質を捨てゝゐる。そこでこの繪は、葉の持つ色でなく、緑の顔料の持つ性質に目を引かせながら、それが長橢圓形の形を節奏するのである。語るものはそのやうに限られてゐる。

 ところでこの繪は、見られた自然はあまりに早く捨てられ、葉の色の濃淡がそこに殉死し、同時に空間が消え、甚だ工藝圖案的になつた。私はこの繪を裝飾性の濃いものとして見ながら、そのために捨てられたものが、あまりに早く、そして繪の内面に慎重にでなく、繪の外へ安易に捨てられてしまつたために、語らせるものを感じさせはするが弱め、繪から工藝へ傾かせたのを缺點としたい。

 なほ云へることは、畫面が窮屈なことである。それは繪が四邊で終らず、殊に上部では、自然を枠で切つて眺めたのと同じ切られかたをしてゐるため、もつとあるべきものゝ部分のやうだからだ。繪はどのやうな小さな一角を描いても、一つの秩序のある世界であつてほしい。枠で切つて見た自然は全體の部分であり、無理に切られた姿である。繪に描いた部分は部分であることを忘れさせる部分である。四邊は繪の終りとして終り、そこにおのづから額縁が來るのでなければならない。しかし、そのやうに構成された繪は、切られた部分の繪が、それへ續けられるひろがりを、不滿をもつて要求されながら決してひろがらないのに反し、描かれないひろがりを含んでくるのである。

   「小さき軍使」 陳 永 新

 目録の作者名は永の字が土を横に二つ並べ、その上へ又一つ置いた字である。が、昨年、「魚菜圖」を描いた永新氏と同じ人である。土三つの字は印刷所で新しく作らなければならない字だと思つて避けた。落款は永新だからゆるしてもらへよう。作者は第三回展に新の字で出し、次の年は土三つの字で出してゐる。年々いゝ。陳永森といふ人も出してゐるが、この森の字の人は、新の字土三つの字の人の兄である。第三回展に「山の鳥屋」で特選になつた。日本畫の型に縛られず素純な態度でよく自然を見ようとしたもので、資質のよさといゝ展開とを思はせるものだつた。果して次の年の「朝の光」はそれからの努力をよく示し、特選には漏れたが特選になつた繪よりも私は注目した。臺灣の事情から考へられる特選の繪の及ばぬものを示してゐた。昨年は「村童と山羊」で再び特選である。前年の型の無理がこなれて進んできてゐた。私は第一部の新しく得た優秀な人はこの作者だと思ふやうになつた。今年出品が無いのは、内地在住で送りにくかつたのかと思ふ。「小さき軍使」は特選になつたが、兄の繪の無い會場で目立つ仕事に進んできたわけだ。賢兄を凌駕する繪ではないが、賢兄に續く賢弟の仕事である。

 多くの鳩が畫面に舞ひ、あまり無理なく按排されてゐる。羽毛は説明的に描寫されず、たらしこみの筆法で堅い輪廓を柔く助けてゐる。群れの遠近を考へないやりかただが、重なりに混亂がない。

   「修繕船」 宮 田 晴 光

 真中に大きく木造船が艫を見せて置かれ、人物が二人配されてゐる。小屋の中である。その向ふに海が見える。灰色調の中に海の色の青いのが目を救ふ。この青が無かつたら繪は怠屈に過ぎるだらう。しかし灰色調は、海の青に目がひろがるのを考へてのものかもしれない。それにしても、その灰色調にもう一息の變化がほしかつた。物を括る薄墨色の太い線が、あまりに同じ緩さに引かれず、多少の強さと早さとを見せ、それが中心の船の實在感に働き、小屋の空間感を助けるものともなつてほしかつた。それに船に塗つた廣い面の墨色に、なほ感興が加へられたらこの繪の語るものを一層強めたにちがひない。晴和な情趣が怠屈さに傾かうとせず、強い張りに高まつたことだらう。

   「千亞千溪」 高 梨 勝 瀞

 これまでの繪は、静に塗られそして細かく描かれ、弱いが緊張し、一つの心境からの願ひが感じられる自然だつた。しかし今年の繪は、それの進められたもの、或は繰り返しではない。

 大きな河が畫面の下半を領し、上半は山と空で、河の真中に水牛二匹に人が乗り、水牛の足を隠す河を渡つて行く。目はいきなり水牛と人とにくい。その用意であらう、あまり塗られぬ白い河に、それが濃い墨の線で描かれてゐる。そこから離れた目が上半にいくと、そこは山も空も具體的な色で塗り重ねてある。それも用意のあるところと感じられぬことはない。極めて慎ましい心境で自然に傾倒してゐた作者は、こゝでは對象を計畫の下に操縱しようとする態度に變つた。ところでそれを知らさせることはできたが、うまく成功はしなかつた。まづ全體に弱い。その弱さは、これまでの緊張に包まれる弱さでなく、構成の亂れからくる弱さである。そしてこれまでの緊張には、見つめられた自然が、その誠實さに應へようと歩いてきた。弱さは亂れずに助けられた。が今度は、己れの力を信ずるかのやうで、自然は歩みを向けるすべが無かつた。自然は作者の成すところを冷然と見てゐたのである。作者は、一人でやつてのけた。力足らず、計畫は意の如き表現を擔はず、バラバラの弱さを見せたのである。次に、水牛と人との素描から山と空の色面へ目をうつすと、その具體性が不自然に見える。そこから水牛と人とに目をうつすと、線の中の實體が空間に見える。反する二つの描寫が効果とならず、そのやうな不自然さを生んだ。それから、目を近づけて水牛と人とを見ると、人の顔の表情が漫畫的なのが卑俗である。山と空とを見ると、滲む紙に不穩當な塗りかたをしたために、色が鈍く沈んでゐる。

 この繪を成功に近づけるためには、人の顔の表情をなほ工夫し、山と空の部分も素描風にすることだらう。それにしても、作者に招かれてきた自然を、作者はこのやうに拂ひのける態度に、變つて行くのだらうか。

   「水」 中 村 敬 輝

 作者はこの數年、働く人の姿を描き續けてゐる。それらは日本畫に消化しにくいものである。これまでの日本畫の技法に當嵌めようとすると、兵隊も少女歌劇のそれを思ひ出させるものになる。作者がこれまで描いてきてゐる働く人等は、最も強い現實の中にある。觀者は繪の中にもその現實を何より感じようとする。作者がそれを描かうとするには、その現實感にせまる努力にひたむきでなければならない。それを描かうとするやむにやまれぬ氣持は、日本畫の技法と甘く妥協はさせないと思ふ。こゝでは日本畫の技法はどうならうとかまはぬ勇氣が必要である。

 三人の少女が、鶴嘴などの工具を肩にして炎天に立つてゐる。三人の影が強く落ちて炎天を知らせてくれる。一人が水筒の水を飲むのもその感じを助ける。が、強い現實の少女を感じさせることには遠い。考へはあつても描寫が真にせまらないからである。衣服がもつと強く物に即いた寫生でなければならない。あのやうな強い影を落してゐるのに、衣服が平面描寫では不自然である。三人の顔が同じやうな類型で三つ子のやうになつてゐるのや、甘すぎる表情になつてゐるもの考慮されていゝ。働く少女の意志が見つめられなければならないのである。地面が虚體なので落ちた影は斜に立つてゐるやうに見えるのも困る。

 工夫はあつても、對象の實體は見られない。張りのある現實面を描かうとするのには敬意を表されても、その態度の安易さは云はれなければならない繪である。

   「黄蜀葵」 余 徳 煌

 大きな畫面を品よくこせつかずに纏めてゐる。太い薄墨色の變化の無い線が、全ての物の輪廓に置かれ、適度の濃さの色かその中をうめてゐる。この型式が滞らずに行けば、畫面は品よくこせつかないものとなつた。しかし、眺めて厭きやすい。型式に行く過程が早いからにちがひない。型式の前に、自然を見極める努力が薄く、早く型式の運びかたを心得たからだらう。だから繪が模樣に傾き、上品な綺麗さからあまり離れないのだらう。

 この型式は流行の兆がある。警戒を要する流行である。もつともこの流行は、あまりに汚い畫面を清める功はある。

   「雨後」 「磯」 木 下 静 涯

 昨年の繪のやうに筆が伸びず、感興が高まつてゐないのを感じる。「雨後」は水墨。「磯」は彩色である。作者は自然を温良に眺め、一つの傳統的な畫風で纏めるのである。もつとも、眺められる自然への工夫が無いのではない。しかしそれが出すぎるとき、磯に寄せる波のあたりのやうに整はぬことがある。

   「晴れの日」 「便り」 野 月 泉 月

 いつも美人畫を描いてゐる。美人を美人として描き、美人以外には美しい人間は居ないものとし、美人以外には氣か向かないやうだ。しかしそれも一つの態度である。そしてこの態度は作者一人のものでなく、日本畫の中に鬱然たる勢力のあるものである。

 觀者は、繪のやうに美しいと云はれる美人を見るやうに、この繪の美人を眺めるのがよい。そして、繪のやうに美しいと云はれる美人を聯想するのがよい。さうした觀賞をよぶための技巧は、巧みに行はれてゐる。通俗な眼を決して逃がさず、不滿足を與へない。しかし、卑俗に過ぎる場合がある。「便り」はそれに近かつた。

   「まぐろ船」 水 谷 宗 弘

 繪具を重ね、泥繪のやうに描いてゐる。油繪で描く風景畫も、このやうな態度で描くことができよう。もつとも油繪具とは異る質の顔料だから効果は變つてゐる。模して及ばない點と、及ばないだけではなく、別の味を一つの魅力に現してゐる點とがある。

 上半の廣い空の部分に較べると、下半は安心して見がたいところがある。殊に地面の奥行が足りないのは繪を平面にし、この畫風でこれではならないことを強く感じさせる。色をいつそ平面に對比させ、説明的調子を全く取り去り、そして空間を感じさせる工夫はないものだらうか。素描の錬磨がそれをさせないだらうか。

   「朝顔」 「富貴草」 望 月 春 江

 例の太目の薄墨色の線で描き、それへ色を置くやりかたである。しかしさすがに、その裏によく對象を見つめた時間と、それを追ひつゝ描いた素描のあることを感じさせるし、表現への構成にその型式が從つてもゐる。殊に「朝顔」にそれがある。たゞ朝顔の葉にぶら下る蜻蛉は必要だらうか。それはよく見ないと目につかない。そして目につくとそれが繪の纏りから外れてゐるやうに思へて氣になつてくる。S字型に巻かれてのぼる蔓の線をたどりながら、そこで目が捜し物をした興味へ外される。

 それにしてもこの「朝顔」は、色と線との美しい階和を、よく見られたものゝ上に得て、目を快くたのしませる。「富貴草」の赤いはうの花は、少し調子を外して出てきすぎるやうに思へる。そしてそれは切り張りのやうに堅い。

   「好日」 林 々 之 助

 陳永森氏と共に最も期待をかけられる第一部の新人だと思ふ。生き生きとしたものが感じられ、新鮮である。ともすれば平板になる型式がさうならないのは、作者に感性と工夫とが働いてゐるからである。例へば腕の二つの平行する線が、一つは濃く一つは淡く描かれてあるが、それは平面に塗られた色を助けて丸味に働くなど。

 この繪の缺點は、母と子と地面に落ちた一輪の花と、この三つのものゝ關聯を招く工夫が足りず、目は三つのものへバラバラにはしることだらう。色と線との構成が、もつとうまく對比しそして渡り合ひ流れていかなければならない。

第 二 部 (西洋畫)

   「樹枝」 佐 伯 信 夫

 漫然とでなく、よく計畫された繪の一つである。感覺を失はず、このやうに計畫された繪は此處に乏しい。

 日本畫の花鳥畫の構圖のやうに、一本の樹が前面に主題として描かれ、その樹枝の構成を他の全くのものは助ける役割を與へられてゐる。たゞもつとよく見なかつたために、色の調子に整はないところがあり、構成されない説明的描寫が殘つてゐる。このやうな繪が、ともすると落ちこむのは日本畫によく見る工藝圖案的の繪である。

   「三月堂」 新 見 棋 一 郎

 作者は自然觀照のうちに色を少なく整理しつゝ。弱いがそれを静かな構成に組む意圖をいつも見せてくれる。そのときの自然觀照に働く感覺が生き生きすると昨年のやうによく、それが薄れたときはこの繪のやうに淺く平たくなる。

   「斜陽」 鮫 島 梓

 昨年から今年へと充實した健康な努力が續けられてゐる。立つ人間と丸いバケツとで構圖をよく引締め、複雜な物を色と線と面とによく纏め、一つの動勢に向はせ、しかもそれらは厭かず對象を見、描寫した結果としてあらはれてゐる。効果を先に立てない著實な態度である。特選になつた作品のうち、この繪と「流しもと」の二つは最もいゝ。

   「船團南へ行く」 楊 佐 三 郎

 前面に岩の群れがある。目は先づそこへ行く。それから海へ離れる。岩と海の繪である。或日海邊で描いた岩と海の風景畫である。水平線に灰色の船らしいものがいくつかある。それが題名になつてゐる。しかし決してそのやうな歴史的主題畫ではない。題は岩でも海邊でもかまはない風景畫である。船團云々の題は何かの都合でつけられたものとし、それにこだはらずに見るのが、この繪を厚意的に見る態度である。船團は無いはうが水平線をすつきりさせるほどである。これを描いた日、水平線に船團は無かつたかのやうにその水平線は引かれてゐる。

 さて岩を見る。それは重量を持たず、強いタツチは岩の表面を走つてゐる。立體を摑む面への働きかけから離れて走るタツチである。もつと岩の持つものへ從つた描寫が行はれなければならない。それによつて色も變化と統一を見せて岩を語り、海の廣さと岩とが對比して觀者に働きかけるものとならう。

   「油果採取」 飯 田 實 雄

 新しい生活面から得た風俗畫である。これまでの意圖の強い構成からしりぞき、或はそれを包むところへ進んだかと思へる。近くで見ると描寫の足りなさを感じさせるが、離れると色の量比が整つてゐる。私の見た作者の繪の中で、最もよく自然が觀照され、無理な心ぐみの除かれたものである。後景の人物の形に整はないところがあつた。惜しいと思ふ。

   「亞熱帶林」 桑 田 喜 好

 冷く堅い。觀者に語かけない。挨拶をしようと帽子へかけた手をそのまゝ下ろさせる。觀者は淋しくこの繪から離れなければならない。丹念に描かれ、しかも緊密さゝへある。が、そこには自然が無い。作者の話かけた自然がない。話かけられなかつたものは、また話しかけようとしない。

  「花」 「娘風俗」 鹽 月 桃 甫

 昨年の「黄葉群」には嚴しい描寫があつた。それが全くを語るのだつたが、その影に言葉の意味が潜んでゐた。「娘風俗」には言葉が殘されない。どこもかしこも繪畫である。繪畫のみに語らせ渾然としてゐる。言葉の意味に未練を殘さない。が、その繪畫の中に過剩なものとして感じられるものはなんだらう。作者の趣味の地盤がさせるわざだらうか。

   「初夏の道」 佐 伯 久

 強く達筆に、そしてよく整つた寫生畫である。日向でも安心して見られるほどの崩れぬ調子があり堅固である。しかし新鮮な感覺に缺けてゐる。いつか見た繪かと思ふ。達筆が抑へられ、自然を見るのに繪畫を作る約束を一●忘れなければならないだらう。このやうなところから達者な職人仕事が芽を出すのである。誤りのない道にある繪だが、そこにはそのやうな陷穽がある。

   「南海魚」 南 風 原 朝 光

 圓卓の上に置かれた魚が美しい色を較べあひ、そこを中心に室内の色と形とが巡る。色は白をあまり含まぬ濃い味のある色のお汁で塗られ、形の變形は意識された稚拙感を持ち、それらは親はしい身近なものの聲で觀者を惹く。深く大きいものへの仕事ではないが、近親の情のまことに濃い、手を觸れたくなる民藝の味に通ふ美しさである。そしてこれは昨年の繪より一段といい。そしてこの仕事は、この會場で最も特異なものゝ一つとなつてゐる。

   「青衣」 根 津 静 子

 丹念な勞作である。婦人は横向きに椅子に腰かけてゐる。着物は青くバツクは卵色である。その二つの色の大きな面の對比の中に細かい調子が整へられてゐる。全てがよく見られ、骨折り甲斐のあつたものになつてゐるかと思へる。が、もう一段明晰な感じに伸びなかつたことを惜しみたい。そして椅子の背に、−椅子は正面を向いてゐるので、その背は膝の向ふに見える−布の面を置きたい。そして下部の弱さを助け、三つの色の對比ともしたい。

   「臺南孔子廟」 秋 永 紀 春

 作者の色感は作者の趣味に終始してゐる。そしてその色感が全てを語つてゐる。それは色がついて透きとほる紙−よく菓子などを包む−あれで自然を見たやうな色である。その自然から離れた趣味的な色を好む人たちの眼にのみ語りかける繪である。

   「坐像」 李 石 樵

 春の臺陽展の肖像畫のはうに研究的な努力があつた。そしてそれはこの繪より進んだ仕事であつた。この繪は晴々しく描かれてゐるが、少し綺麗事である。そして常識的である。

   「勤勞老人」 西 尾 善 積

 昨年の肖像のはうが、線にも色にも張りがあつた。これはなんとなく弱々しい。手の組まれた胸のあたりの實在感は殊に弱い。

 作者は感覺的な明るい色を持つてゐたが、それは捨てゝしまつたのだらうか。昨年も今年も、暗い滞る色になつてゐる。

   「流しもと」 廣 P 賢 二

 鮫島梓氏の「斜陽」と共に、新人の健康な仕事である。鮫島氏の仕事と同じ賞讃を受けるものである。上部は少しだるいが、下半分の快い調べがまことにいゝ。「斜陽」は野性的に強い。これは明晰で澄む。

   「新緑薫る頃」 李 梅 樹

 この甘い通俗性は第一部の「便り」の美人畫に通じないだらうか。作者の生活感情は、このやうな甘さと通俗性の中にあるのだらうか。

   「紫陽花」 森 永 一 握

 右端上部が非常にいゝ。そこのやうなしつかりした調子が全體に及んだら美事である。地面は甚だ悪い。非常にいゝところと、甚だ悪いところとを、臆面もなく同じ畫面にあらはす作者の不思議な感覺に注目したい。

   「象椅子」 高 田 馨

 木彫のやうだと云つた人があるさうだ。ほんたうにさう見える。なほそれにつけ加へて云へば、木彫を縱半分に切つたやうだ。象椅子とそれに乘る少年の、見える面は木彫のやうに、それも立體感のよく整つたそれのやうにしつかりしてゐるが、見えぬ裏側は真平らに感じられる。これはどうしたことだらう。畫面の組立があまりに畫面の上でのみ考へられ、しかも考へられた結果が答として出、そしてそこに止どまつてゐるからだらう。

   「蓖麻の村」 陳 春 徳

 作者の繪を私はいつも味に遊んでゐると云つてゐる。そしてガラス繪などはしないはうがいゝと思つてゐた。まともに自然と取り組まないかぎり、作者の繪は低徊して動かないと思ふのだつた。私はこの繪を見、作者の繪が立直つたのを喜んだ。臺陽展作家のうち、一番いゝ仕事をしたと思ふ。空の重い青い色が、夕方の橙色だつたらもつとよかつたと思ふ。自然がまともに觀照されながら、錦のやうな味が加へられてゐる。この味は、まともな觀照があつて生きるのである。

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